the unstable 85th.

(不安定な85番目)
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消えない温度

 ぷつり。と途切れる音がする。それはとてもとても小さいもので、いっそ聞き逃してしまうような、海辺の水一滴が水面で跳ねるかのような小さな音だった。
「…………っ」
 けれどその音はどんな爆音よりもすさまじく脳裏に響く。ぽたりぽたりとまるで血痕がしたたり落ちたような、命の終わりの音だった。


「ミラ、どうかした?」
「…………いや、なんでもない」
 首を横に振れば、訝しげに見ていたジュードがそう? と全く納得していない顔で隣に座る。寒い空の中に二人でいるのは今も前も少ない機会ではなかった。
 触りはせずともそこに存在しているのが分かるそんな距離にミラはずいぶんと慣れ切ってしまったのだ。


 それは、僅差の中、分史世界の中にあった可能性の世界だった。

 いつか別れる時が来る。
 それは今のように実体化できずに、人間界と精霊界に別れることではなく。もっとも根本的な別れ。
 精霊として生きていく自分と研究者といえども人間であるジュードが完全に別離するのはこの先のすぐの別れではないことを今更ながらに実感したのだ。
 それが寿命などというものではなく、ただ殺されるという現実があるのだということを。少しずれた世界の中でそれが現実になり、そうしてその手をかけた人が先に倒れたヴィクトルだということ。
(……そうだ、ジュードは死ぬ。いつか)
 そんなことはずっと知っていたはずだった。人間が死ぬのも魂を送ったのもいくらだってある。二十年という中で幾度となく味わったものだ。けれど。けれど。
(ジュード、だけは)
 死なないなんて思っていた訳じゃない。それでも、あの世界の中ではジュードはもういないのだと、そんな事実にじわじわと何かを思う。

 ――ああ、これが自分に降りかかったとして。
 彼だけは冷静に見送れるはずがないのを今になって思い知る。想像してみてもきっとローエンもガイアスもアルヴィンも、レイアもエリーゼさえもきっと見送ることができる。苦しくて、切なくて、悲しくて、けれど納得して、彼らは頑張ったのだろう、ある程度の時間は、気分が重くて暗くなるだろうけれど、私も誇りを持って彼らを見送ろうと思えるだろう。でも、彼は、彼だけはいなくなったら。
 見送りたい。最後にできるだけ見ていたい。でも見送りたくなんかない。まだいてほしい。傍になんていられないから、彼に誰か大切なものができても構わない。幸せになってくれればいい。けれどきっと彼は研究に没頭して黒匣のことを考えてそうしてミラのことを想ってくれるだろうということも少なからず考えていた。それに頼っていたのだ。
 オリジンを完成させてくれる。それは信頼とも信用とも好意ともいえるものだった。だけど、そのために彼がいなくなるのは。その後に彼がいなくなるのは。

「.……ジュード」
 小さく言う声は隣ゆえにすぐに届いて彼は笑う。笑って少し驚いてこちらに向き直る。
「どしかしたのミラ? 辛そうだよ? ……いろいろあったもんね」
「あ、ああ……すまない」
「……ミラ、ちょっと待ってて」
 え、と目を見開いている間にジュードはひらりとその場から駆け出してしまった。そうして家の中に入って行く。
 途端、ここが寒くなった気がした。寒い空。外気温も相当なものだが、それにしても寒い。両手をこすり合わせていると、すぐにジュードは戻ってきた。ごめんね、と笑ったのを見てこすり合わせていたのを止める。
「あったかいものをお腹に入れると少しだけ幸せになるじゃない?」
 ほら、と寄越されたのはホットチョコレートだ。暖かい。渡されたときに触れた彼の手もまた温かった。
「確かに、美味しいな」
「うん、ミラには効果抜群だね」
「む、それはあまり褒められている気がしないぞ」
「あはは」
 ホットチョコレートは美味しい。ジュードが淹れてくれたのなら尚更だった。
「……ルドガーとエル、どうしてるかな……」
 優しい彼はそうして家の中を見上げる。会話もなくまた食事を用意しているのだろうかと心配そうな視線を送る。
 優しいジュードは明らかに隣にいるけれど、膜が張っているようになんだか遠い気がして彼の洋服を掴む。こうして触れる奇跡が続かないのは悲しい。けれど、彼がいなくなってしまうのはもっと。
「……」
「? どうしたの、ミラ」
「君がいなくなるという選択肢を今更ちゃんと理解して思ったんだ、怖いのだと」
「え、」
 驚いた顔はやはり彼もまたそう言う考えを持っていたのだと知る。
 当然だった。ジュードは頭が良いし常識的でけれど途方もない努力を重ねる希望を持つ人間だった。
「君がおじいちゃんになっていつか、というのは理解していたが、こう数年立たず殺されるという選択肢があるということに」
 今更ジュードに繕うことはしない。ぼんやりとコップの中の自分は、まるで先代のマクスウェルから使命を取り上げられたミュゼのように途方に暮れた顔をしている。

 彼がいなくなったら。文字通り存在がなくなったら、と考える。
 ああ、きっと人間すべてを平等に愛して大切に思い、そうして非情になれる精霊になれるだろう。そう思う。

 人を人として見る。昔の私。
 それ以上も以下もない、特別など存在しないのだと豪語していた私だ。

 それは存外にジュードが特別ということ。ならば、あの時彼と同じ存在に願ったらこんなこと思いもしなかっただろうか。
 けれど私はマクスウェルであること望んだ。マクスウェルでありたかった。彼の好きな自分でありたかったのだから。


「ねぇ、ミラ、僕は死ぬよ」
 絶対ね、とさらりと言った言葉はとても重い。
「……、ああ」
「でもそれは今じゃないから大丈夫」
 そう付け足されたそれは力強いものだった。
「いつか死んじゃうとき、僕は絶対にミラを想うから、最後に会いに来てね」
 もちろん黒匣完成させてミラに会えるように頑張るけれど、と彼は笑った。一年前よりもずっと綺麗で一人の男の顔だ。
「ミラはずっとミラで、それも納得だけど。もし僕が死んじゃって、ミラが人間すべてを平等に想うのだったら、それでも僕はいいんだよ」
 ホットチョコレートをひとつ飲んで、彼は笑う。その意味が分からずミラは首を傾げた。
「……君は今の私が好きなんだろう?」
「そうだけど、僕が死んじゃうとき、ミラの一部も僕と一緒に消えてしまうかもしれないってことでしょう?」
 彼は本当に嬉しそうに笑う。
「不謹慎だけど、僕とミラは同じ時を歩けないと思ってたから、そう考えるとずっと一緒ってことなのかもしれないね」
 にこにこと笑う顔には影がなくて、そうして目を見張る。
「……なるほど」
 目から鱗だと言えば彼はミラの手に同じそれを添えた。
「もし、ミラがミラのままなら、僕が死んだら精霊になって、ミラのところに行くからね」
 そしたらどっちでも、ミラと僕はずっと一緒でしょ? と彼は笑う。初めて出会った時とは比べ物にならないほど強くなったジュードは相変わらずとてもお人好しで、優しいままだ。
「暗くなってきたし、そろそろ中に入ろっか」
 こうして傍にいる時は、手を差し伸べられれば、いつだってそれに添えたかった。
 だってこうすれば暖かい。しあわせを情景として現すとしたら、これが正しいのだと思う。ミラの中ではそれは間違えようのない事実だった。

 だからやはり、ジュードがいなくなったら私は泣くのだろう。
 暖かいのは彼の総て、彼は私を暖める総てなのだ。



(彼女の特別)

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